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宇都宮地方裁判所 昭和36年(わ)267号 判決 1962年11月28日

被告人 関口和男

昭一四・一・一一生 草履製造職人

主文

被告人を懲役五年に処する。

未決勾留日数中、参百参拾日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は

第一、昭和三五年一一月頃から愛沼サワ(当時二〇年位)と知り合い、結婚を約束して被告人の自宅などで肉体関係を続けていたところ、昭和三六年一月頃になつて同女が妊娠するにいたつたのであるが、同女から妊娠を知らされた同年三月頃にはすでに同女に対する愛情も冷めかけ、他の女と婚約のうえ交際を始めていたので、サワとの間に胎児の仕末や別れ話などをめぐつて屡々いさかひを繰り返しているうち、同年八月末頃になつて、子供が生まれたときには被告人が引取つて養育することで一応別れ話がまとまり、同女が出産のため栃木県真岡市京泉五七八番地の同女の生家に帰つたので、出産予定日を約一ヶ月過ぎた同年一〇月三一日、同女からは何の連絡もなく、また子供を引取つたあとの養育を誰がするかについてもはつきりした計画もないのに、もし子供が生まれていたら引取るつもりで、同女がかねて被告人の許に預けておいた嬰児用の衣類などを携帯し同女の生家を訪れたところ、同女が十数日前に男児(昭夫と命名したが出産届は未了。)を出産していたことを知つたので早速引取る交渉をすすめ、同児に愛着を感じていたサワがその母親と共に、子供はまだ産后間もないのであるから暫く手許で養育させてもらいたいと重ねて頼むのを強いて押し切つて同児を受取り、同日昼過頃同女宅を出て、片手で同児を抱き、片手に同児の着替の衣類を入れたボストンバツクを提げながら徒歩で同県芳賀郡益子町方面に向つたのであるが、もともとサワとの関係を解消したい一心で強いて子供を引取つてはみたものの、当時同棲中の女との間に同児を育てる話もまとまつてはいなかつたし又その養育を依頼するあてもなかつたところから、直ちに同児の処置に困り、一旦は途中の道端に捨てようとしたものの泣き出されたので抱き上げて歩いているうちに再び同児が泣き出しなかなか泣きやまなかつたこともあつて困惑のあまり、結局同児を殺害しようと決意し、同日午后二時三〇分頃、同県真岡市飯貝字高手尾二、四一五番地先の雑木林の中を流れている赤堀川(幅約四米、水深約二〇糎)西岸において、同児を抱いて坐つたままの姿勢で右手を同児の首の後から廻してその首を強一米く扼し、よつて同児を窒息死させて殺害し

第二、右殺害に引続いて、同児が着用している衣類から身許が露見することなどをおそれてその場で同児の死体から衣類をはぎとり、裸にして同児の死体を右赤堀川の水中に投じて遺棄し

たものである。

(証拠)(略)

なお、被告人は、捜査の段階においては前示犯行を全面的に自白していたにもかかわらず、当公判廷においては一貫してこれを否認し、当日愛沼サワ方を出てから嬰児を抱きながら歩いて栃木県真岡市から同県芳賀郡益子町に通ずる益子街道に出て、通りがかりのトラツクに乗せて貰つて益子町方面に向い、途中で車を降りて間もなく同町大字塙五五五番地先の同街道北側道端に、晒布オムツ二枚と青色かかつたオムツ一枚を畳んで枕にさせ、嬰児が着ていた外側の着物二枚を脱がせその下に着ていた赤色胴着を外側に出して同児を寝かせたままその場を立ち去つた、と捨子をした旨の弁解をしている。

嬰児の死体が発見されていない本件においては、被告人の右弁解も慎重に検討する必要があることはもちろんであるが、証人愛沼サワ、同矢口チイの各当公判廷における供述、当裁判所の検証調書などによれば、本件犯行当日の午后四時三〇分頃、被告人が単身で同県益子町大字北中八〇六番地の矢口チイ方を訪れ、不要になつたからといつて同女に預けていつた嬰児用の衣類と、その三、四日后に同女が拾得した同女宅南方約一〇〇米の同部落熊野神社裏の山林内に遺棄されてあつた嬰児用の衣類は、いずれも被告人が当日東京から持つて来たか或はサワが当日嬰児に着せたまま被告人に引渡した衣類であつて、チイが拾得后汚物が付着していたために焼却した赤色がかつた綿入着物他一枚をのぞいては、すべて証拠物として押収(昭和三七年押第五号の三ないし二三)されているが、毛糸帽子一個が不足しオムツの数量が若干不明確な点を除いて、その間に品質の相違、又は数量の不足がないのみならず、右山林中に遺棄されてあつた衣類は当日サワが嬰児に着せてやつたもので、しかも赤白黒格子模様のネルジユバン(前同押号の一八)、手拭製ジユバン(前同押号の一七)、縦縞のネルジユバン(前同押号の八)などの肌着類はサワが着せた順序のまま袖を通して重ねられた状態で発見されて居り、汚物が附着したオムツやオムツカバーも同時に発見されていることが認められるのであるから、着物を着せたまま捨子をしたという被告人の弁解と矛盾し、なお証人堀野ユキ子の証人尋問調書によれば、被告人は当日真岡市京泉方面から益子街道に出たときには既に嬰児を抱いていなかつたと認められる(前示殺害現場の同市高手尾二、四一五番地先の雑木林は同市京泉のサワ宅から益子街道沿いの堀野方に赴く途中にあり、堀野宅から東北方約五〇〇米の地点にある。)のであるから、被告人の前示弁解は全く信用することができない。

一方、前掲の被告人の捜査官に対する供述調書の信用性について検討すると、被告人の当公判廷における供述、証人柴田恒次、同横田浩の各当公判廷における供述、押収してある略図二枚(同押号の二四および二五)などによれば、被告人は、当初東京都千住警察署において本件殺人容疑で取調を受けた際には、サワ宅から真岡市西田井方面へ向う途中の墓地の附近で嬰児の首を扼して殺害したのち着物を着せたまま死体を土中に埋めたと供述していたが、同年一一月二二日午后二時頃、真岡警察署に身柄を移され、早速死体を埋めたと称する場所へ案内を求められて署員と同道する途中で急に泣き出し、前示のとおり赤堀川西岸で嬰児の首を扼して窒息死させたのちその死体を川中へ投じたことを自白するにいたつたのであつて、その后被告人の自白及び被告人が作製した図面などに基いて裏付け捜査が行なわれた結果、被告人の指摘によつて、前記の山林中に遺棄された衣類や矢口チイに預けた衣類のあることが判明し、被告人の通行を目撃した証人関賢、同堀野ユキ子などがいたことも明らかになつたもので、これらの発見された証拠と右被告人の自白との間には相互に矛盾する点も少なく、右被告人の自白が客観的な事実に合致していることが認められる。

しかも右被告人の捜査官に対する自白は第一回公判開始前まで終始一貫していると同時に、殺害の動機、犯行の態様、現場の模様などについて極めて詳細であり、前記のような捜査の経緯などからしても、被告人の右自白が強制、誘導などにより不任意になされた疑いを抱かせる証拠もないことを考えれば、被告人の前掲捜査官に対する自白調書の信用性は極めて高度のものであるといわざるを得ない。

さらに証人柴田恒次、同横田浩の各当公判廷における供述、当裁判所の検証調書、司法警察員作成の実況見分調書などによれば、被告人が嬰児の死体を投棄した赤堀川は殺害現場附近では幅約四米、水深約一米一〇糎の小川であるが、下流において小貝川に合流しているものであつて、本件死体の捜索が行なわれたのは犯行后約一ヶ月を経てからであり、しかも右捜索が行なわれる数日前に降雨があつて水量が増加した事実も認められるのであるから、生后十数日の嬰児の死体が流失その他によつて、川浚いによる捜索が行なわれた赤堀川と小貝川の合流点附近及びその上流の赤堀川流域においては発見されるに到らないことも十分有り得ることであるから、死体が発見されるに到らなかつた一事をもつて、前記被告人の自白が虚偽のものであるということはできない。

以上の理由から、当裁判所は公判廷における被告人の供述を措信せず、捜査官に対する自白を信用して前示のとおり認定した次第である。

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、本件犯行当時被告人が心神耗弱の状態にあつたものと主張するのでこの点について判断すると、前掲各証拠及び証人関口ヨネの当公判廷における供述、鑑定人森玄俊作成の鑑定書などによれば、被告人は現に軽度の爆発性の傾向を有する精神病質者であり、本件犯行当時も軽度の精神機能障害を起している状況にあつたことは認められるのであるが、一方において捜査段階及び当公判廷における被告人の供述はいずれも詳細を極めて記憶も明晰であり、その間供述内容が再三にわたつて変遷していることも被告人の虚言癖に基くものでこそあれ、犯行当時被告人が幻覚、妄想などの意識障害を起していたことに基くものとは認められないから被告人の右犯行当時の精神機能障害もその程度において軽度なものであつて、いまだ事理の弁別能力及び右弁別に基いて行動する能力において通常人に比し著しく減弱低下する程度までいたつていなかつたことが明らかであるので弁護人の主張は採用しない。

(法律の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法第一九九条に、判示第二の所為は同法第一九〇条にそれぞれ該当するので、判示第一の罪の刑については有期懲役刑を選択し、以上は同法第四五条前段の併合罪であるから同法第四七条本文、但書、第一〇条により重い判示第一の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役五年に処し、同法第二一条により未決勾留日数中三三〇日を右刑に算入し、訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項但書により被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判官 佐藤恒雄 福森浩 守屋克彦)

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